GOALOOKの塾長@京大生のBlog

京都で学習塾を経営している現役京大生のブログです。主に教育について、勉強法から僕の教育思想まで、つらつらと書いていきます。

「努力するのが偉い」という間違った考え方

 

日本人の美徳として、なのでしょうか。受験において「努力」を目的の成果物として設定するケースをよく見かけます。確かに、モチベーションの有無にかかわらずやらなければならないことというのは一定数あり、それを完成度高く遂行するスキルを身につけるという意味では、努力を目的にしても良いでしょう。実際、とても重要なスキルだと思います。

しかし、目標の一つとして「〜〜大学に合格する」というものを掲げたとして、仮に不合格という結果を得たとします。そこで「君はよく頑張った。その頑張った過程にこそ意味があるんだよ」と声をかけるのは正しいでしょうか。

全面的に間違いだとは言えないかもしれません。でも目標を達成できていない事実は変わりません。得ようとした成果が得られなかったわけですから、存分に反省すべきです。

逆に努力を怠ったのに合格してしまった場合、その過程の意義は薄れるのでしょうか。受験において中途半端な準備で合格してしまうと、その癖がついてしまうので、それだったら落ちてしまった方がその後の人生にはプラスだ、という考え方もあります。実際、当てはまるケースも少なくありません。

 

こうして比べると、結局どっちの考え方が適切なのか分からなくなってきました。ここで僕なりの結論を述べたいと思います。周囲の人間が何と言うかは、正直なところケースバイケースです。どっちが正しいとも言えません。しかし、当の本人に限っては違います。本人は、

適切な方法かつ適切な量の準備を怠った。二度と同じ過ちは繰り返さない。

と考えるべきだと思います。何か事を為すのに必要なのは努力ではありません。然るべき準備です。準備をする上で足りないところがあるならば、それを補えるよう努力するなんて“当たり前”のことです。世の中、成果こそが重要です。「勝った者が正義」という漫画やドラマでお馴染みの言葉もありますが、目標を達成することこそ至上命題であり、プロセスなんてどうでも良いのです。

逆に、負けた者は努力しか誇る物がありません。つまり、厳しい言い方をすれば、努力の誇示は負け犬のすることです。「頑張った」というセリフは敗者しか使いませんし、敗者に投げかけられるセリフです。

「自分は頑張った」などと自らの努力を誇るような大人になってはいけません。

社会に出て、何か失敗したとして、「努力が足りなかった」なんて言う人は次々に脱落していきます。次に繋げ、いずれ成功する人は「準備不足」と捉えます。努力なんてするのが当たり前ですから「何が足りなかったのか」「次までに何をどのようにどれくらいやればいいのか」に目を向け、明確な計画を立てます。そして、ただただ実行します。

 

受験(特に大学受験)は、人生において最初で最後の「平等な戦い」です。ほとんどの人がいずれ経験するであろう就職活動ですら平等ではありません。18歳の子どもたちが捉えている以上に、その後の人生を左右する大きなポイントです。努力したから...なんて言えるほど甘い社会ではないでしょう。学校の先生は、ほとんどの人が就職活動というものを経験しません。(そもそも社会の中での役割が違いますが)市場にさらされ資本主義における自分の価値に直面する、という機会がありません。だからなのか、実は残酷である「受験」というものの真実を教えてはくれません。

受験は合格こそ全てです。ぜひ周到な準備のもと、本番の戦いに臨んでほしいと思います。

 

本日は、思想・信念が濃い目でした。一応断っておきますが、あくまで「受験合格」が目標のひとつだという方に向けた言葉です。勉強の目的はそれぞれですし、それに沿って設定する目標もそれぞれです。何よりGOALOOKは受験合格がすべてだとは考えていません。

拙い文章ですが、僕の言いたいことが伝われば幸いです。

 

 

www.goalook.net